平賀源内の収入源は?その仕事を解説|江戸のフリーマルチクリエイター

平賀源内_白黒
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はじめに

江戸時代の天才として知られる平賀源内(ひらがげんない)。エレキテルを復元した発明家として有名ですが、「実際には何を仕事にしていたの?」と疑問に思う人も多いのではないでしょうか。

現代なら発明家や科学者という職業がありますが、平賀源内が生きた18世紀の日本には、そのような職業はほとんど存在していませんでした。

そのため平賀源内は、一つの仕事だけで生活していたわけではなく、学者、作家、技術者、プロデューサーなど、さまざまな分野で活動しながら収入を得ていました。

この記事では、平賀源内の収入源や主な仕事についてわかりやすく解説します。

平賀源内はもともと武士だった

平賀源内は1728年、現在の香川県にあたる讃岐国で生まれました。

父は高松藩に仕える下級武士で、源内自身も若いころは藩士として生活していました。

武士には俸禄(ほうろく)と呼ばれる給料が支給されるため、源内の最初の収入源は武士としての収入でした。

しかし源内は、武士として出世することよりも学問や研究に強い関心を持っていました。そのため次第に藩の仕事よりも研究活動に力を入れるようになります。

やがて藩を離れ、自由な立場で活動するようになりました。

1.本草学者として活動した

平賀源内の中心的な仕事の一つが、本草学者でした。

本草学とは、植物や薬草、鉱物、動物などを研究する学問です。現代でいえば薬学や生物学、博物学を合わせたような分野といえるでしょう。

源内は全国各地を旅しながら珍しい植物や鉱物を調査し、その知識を広めました。

当時の大名や商人たちは、薬や特産品の開発に関心を持っていました。そのため源内は専門家として助言を行い、報酬を得ていたと考えられています。

現在でいうコンサルタントや研究者に近い仕事だったといえるでしょう。

2.発明や技術開発でも収入を得た

平賀源内といえば、やはりエレキテルが有名です。

エレキテルとは、静電気を発生させる装置のことです。もともとオランダから伝わった機械でしたが、壊れていたため動きませんでした。

そこで源内はその構造を研究し、自ら修理と復元を行いました。

当時の人々にとって電気は非常に珍しいものでした。そのためエレキテルは大きな話題となり、多くの人が興味を示しました。

源内はエレキテルの展示や紹介を通じて収入を得ていたとも考えられています。

また、鉱山開発や製造技術の研究などにも携わっており、技術者としての一面も持っていました。

3.作家としても活躍した

平賀源内は学者や発明家であるだけでなく、作家としても知られています。

江戸時代には、庶民向けの娯楽文学が人気を集めていました。

源内は風刺やユーモアを交えた作品を数多く執筆し、多くの読者を楽しませました。

知識人でありながら、人を笑わせたり楽しませたりすることにも長けていたのです。

現在でいえば、

  • エッセイスト
  • コラムニスト
  • 放送作家

のような役割に近いでしょう。

書籍の執筆や出版によって収入を得ていたと考えられています。

4.地域振興や特産品プロデュースも行った

平賀源内は全国を旅する中で、各地の特産品や資源にも注目しました。

当時の日本には、まだ十分に活用されていない資源が数多く存在していました。

源内は、

  • 鉱山資源
  • 薬草
  • 陶器
  • 農産物

などを調査し、「どうすれば売れるのか」「どうすれば産業として発展するのか」を提案していました。

また、江戸で物産展のような催しを企画したことでも知られています。

これは現代の地域振興イベントや展示会に近いものです。

つまり源内は単なる研究者ではなく、地域の魅力を発信するプロデューサーでもあったのです。

「土用の丑の日」の仕掛け人という説も

平賀源内には、うなぎ屋の売り上げを伸ばしたという有名な逸話があります。

夏になると売れなくなるうなぎに悩んでいた店主から相談を受けた源内は、

「本日 土用丑の日」

という張り紙を出すよう提案したといわれています。

その結果、うなぎが大人気となり、土用の丑の日にうなぎを食べる文化が広まったという話です。

この話の真偽には諸説ありますが、源内が優れたアイデアマンだったことを示すエピソードとして広く知られています。

もし事実であれば、現代の広告プランナーやマーケターのような仕事をしていたともいえるでしょう。

しかし生活は決して安定していなかった

これほど多才な平賀源内ですが、生活は必ずしも安定していたわけではありません。

研究や事業には多くの費用がかかりましたし、すべてが成功したわけでもありませんでした。

また、新しいことに挑戦する一方で、経営面では苦労することも多かったようです。

現在でも、優れたクリエイターや研究者が必ずしも経済的に成功するとは限りません。

平賀源内にも同じような面がありました。

晩年は生活に苦しみ、人間関係のトラブルなども重なり、波乱に満ちた人生を送ることになります。

平賀源内は江戸時代のフリーランスだった

平賀源内を現代風に表現するなら、「フリーランスのマルチクリエイター」という言葉が最も近いかもしれません。

彼は一つの職業に縛られることなく、

  • 学者
  • 発明家
  • 作家
  • 技術者
  • コンサルタント
  • プロデューサー

として活躍しました。

当時の日本では非常に珍しい生き方でしたが、その自由な発想こそが平賀源内の最大の魅力だったのです。

まとめ

平賀源内の収入源は一つではありませんでした。

もともとは武士として俸禄を受けていましたが、その後は本草学者としての研究活動、発明や技術開発、作家としての執筆活動、さらには地域振興や商品プロデュースなど、多方面で収入を得ていました。

現代でいえば、

「科学者」「作家」「マーケター」「起業家」

を一人で兼ねていたような存在です。

平賀源内が今もなお「江戸の天才」と呼ばれるのは、その幅広い才能と、新しいことに挑戦し続ける姿勢にあります。

江戸時代にこれほど自由な発想で活躍した人物は珍しく、まさに時代を先取りしたマルチクリエイターだったといえるでしょう。

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